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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)2919号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判旨】

一被控訴人無量寺は昭和二八年九月二二日設立され、設立当初は真言宗豊山派に属していたが、昭和三六年七月四日同派との被包括関係を廃止し、単位寺院となつた宗教法人であること、同寺は主たる事務所を同被控訴人の肩書地に置き、阿弥陀如来を本尊として真言密教の教義をひろめ、儀式行事を行い、信徒および信者を教化育成することを主たる目的としている(規則第三条)こと、ところで、昭和三六年七月四日無量寺の責任役員として俊衡、訴外斉藤伊知郎、種井清一が就任し、俊衡は代表役員兼住職であつたこと、そして、無量寺の登記簿によると、被控訴人文雄は昭和三九年七月一〇日俊衡が退任したあとをついで、同月二〇日同代表役員に就任したものとして、同月三一日登記がなされ、かつ同年八月四日千葉県知事に対して同旨の届出がなされていること、また、取下前の被控訴人皆吉については昭和三九年七月五日、被控訴人荒井については、同月一五日いずれも無量寺の責任役員に就任したものとして、千葉県知事に届出がなされていること、しかして、無量寺においては、その役員に関して「1 三人の責任役員をおき、そのうち一人を代表役員とする(規則第五条)。2 代表役員は無量寺の規程で定められた住職の職にあるものをもつて充てる。代表役員以外の責任役員は規程で定められた教師のうちから代表役員が選任した者一人および総代の互選による者一人とする(規則第六条)。3 代表役員の任期は住職の任期による。住職の任期は終身とする。代表役員以外の責任役員の任期は三年とする。但し再任を妨げない。補欠責任役員の任期は前任者の残任期間とする。代表役員および責任役員は退任後でも後任者が就任する時まで、なおその職務を行うものとする(同第七条)。4 総代五人を置く。総代は規程で定められた檀徒または信徒で衆望のある者のうちから代表役員が選任する(同第一四条)。5 住職の継承者は教師のうちから住職が任命する(規程第七条)。」と定められていること、以上の事実は、当事者間に争いがない。

二そこで、まず、控訴人が昭和三六年一一月一〇日俊衡から無量寺の住職の継承者に任命されたかどうかについて検討する。

1 <証拠>を綜合すれば、次の事実が認められる。

(一) 控訴人は亡俊衡の長男であるが、僧侶になるため昭和九年頃真言宗豊山派専修学院に入学して三年間の学業を終え、昭和一二年頃権律師の資格を得た。その後、旧満洲に渡つて満鉄に勤めたが、俊衡の要望に従つて、昭和一四年頃無量寺に戻り、俊衡の許で僧職として勤めた。そして昭和一六年頃から昭和二〇年頃まで兵役に服したのち、再び俊衡の許に帰つた。しかし、当時の無量寺の檀家は一五〇軒位に過ぎなかつたので、俊衡と控訴人の二人が僧職にあつては俊衡一家の生活が苦しくなるため、控訴人は俊衡の許を離れ、学校教員とつて生計の途をたてることを考え、昭和二五年頃無量寺を出た。控訴人は昭和二七年に日本大学文学部国文科を卒業し、その後、昭和三二年頃まで千葉県内の小学校、中学校の教師あるいは事務職員として勤め、傍らお盆、両彼岸、年始には無量寺の檀家廻りを手伝つていた。

(二) ところで、昭和三六年七月無量寺は真言宗豊山派との被包括関係を廃止し、単位寺院となり(この事実は当事者間に争いがない。)、俊衡、斉藤伊知郎及び種井清一が新無量寺の責任役員に就任し、俊衡が住職兼代表役員になつた。そして、右被包括関係の廃止に伴う千葉県知事への届出に際し、俊衡は、千葉県庁の係職員から住職継承者を任命しておくよう示唆されたこともあつて、同年一〇月頃控訴人を無量寺の正教師に任命し、さらに同年一一月一〇日、無量寺において責任役員会議を開催したうえで、責任役員斉藤、種井の両名に対し、無量寺の住職継承者として控訴人を選定したいと述べ、その席上、責任役員会議の議決の形で、右両名の賛同を得、これを議事録として、右両名に確認してもらい、さらに俊衡は当時の檀徒総代皆吉直二郎(取下前の被控訴人)、白鳥輔雄、斉藤源治、海老原治郎吉、飯生文吉ら五名に対しても、自らまたは当時の寺男川口久茂を使者としてそれぞれ右住職継承者の任命につき同意書に押印してもらつて、賛同を得た。そして、その頃俊衡は、控訴人を無量寺の住職継承者に正式に任命し、控訴人からその承諾をえた。

以上の事実が認められ、<る。>

2 被控訴人文雄、同荒井の両名(以下、被控訴人両名という。)は、右住職継承者の任命に関し、縷々主張するので、以下、この点について判断を付加する。

(一) 責任役員会議の開催とその議決について(原判決事実欄第四の一のⅠ(一)(1)・(2))

被控訴人両名は、無量寺の住職継承者の任命は規程第七条により住職が任命するものであつて、責任役員会議の議決によるべきではなく、したがつて、右会議の決めた住職継承者の選任は無効であると主張する。なるほど、無量寺の住職継承者は同条により同寺の住職が任命すべきものであり、しかも、法第一八条六項は、「代表役員及び責任役員の宗教法人の事務に関する権限は、当該役員の宗教上の機能に対するいかなる支配権その他の権限を含むものではない。」旨規定しているから、住職継承者という宗教上の地位の任免にかかる事項が、責任役員の権限でないことは明らかである。しかし、住職継承者の任命に当り、任命権者が自己の発意に基づき教師、法類、総代等宗教上の地位にある責任役員をして右任免に関与せしめることを適当と認め、これらの者に適宜の方法により諮ることは、法の趣旨になんら反するものではないと解するのが相当である。したがつて、俊衡が自己の裁量で前記のとおり種井、斉藤両名の責任役員に前記住職継承者の任命につきその意見を徴し、その賛同を得たことを責任役員会議の議決という形式で議事録に残し、そのうえで、総代の同意を得るという手続を行つたからといつても、右任命が俊衡の明確な意思に基づいて行われたことが明らかである以上、本件住職継承者の任命が無効になるいわれはないというべきである。

また、<証拠>によれば、責任役員会議開催当時右任命につき責任役員として賛同した斉藤は総代であり、かつ総代選出の責任役員であつたことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はないから、右斉藤が総代でないことを前提とする被控訴人両名の主張も採用の限りではない。

(二) 檀徒総代の同意書について(原判決事実欄第四の一のⅠ(一)(5))

無量寺の住職継承者の任命が、住職であつた俊衡の意思に基づくものである以上、右任命につき総代が関与したからといつても、右任命の効力になんら影響を及ぼすものではないことはすでに判断したとおりである。

ところで、本件においては、右総代の同意の有無が右住職継承者の任命行為と関連あるものして争われているので、右の点について検討してみるのに、<証拠>によれば、甲第五号証の二の同意書は、甲第五号証の一の責任役員会議議事録と同様、俊衡の指示に基づき、右種井が当時無量寺にあつた有合せの用紙を用いて、その全文及び総代五名の氏名を記載したものであること、右書類作成の時には、前記皆吉も同席し、控訴人の住職継承者の任命に賛同し、その頃自らその名下に自己の実印を押捺したものであることが認められ、<る。>もつとも、<証拠>によれば、右同意書が無量寺の常備書類に綴られていなかつたことが認められ、また、<証拠>によれば、右同意書の総代五名の氏名の記載が順不同であることが認められるが、住職継承者の任命は専ら宗教上の地位に関する事柄であるから、これに関する書類は法第二五条二項所定の備付書類には含まれないのみならず、俊衡がいかなる意図のもとに右同意書の総代の記載順序を指示し、かつ同書面を常備書類に綴らなかつたかについては、的確な証拠がない。したがつて、右のような事実が認められるからといつて、前記認定の同意書の成立の真正及び記載内容の真実性を左右するに足りないというべきである。また、被控訴人両名のその余の主張(原判決事実欄第四のⅠ一の(一)(5)の(ニ)、(ホ))については、これらを参酌しても、前記認定を左右するに足りない。

(三) 住職継承者の任命意思、任命手続及び適格性について(原判決事実欄第四の一のⅠ(一)(3)、④、(6))

(1) 被控訴人両名は、住職継承者の任命書、承諾書及び公告の事実のないことを挙げて、控訴人が住職継承者たる地位についていえないと主張する。しかし、住職継承者は、法所定の役員もしくはその他の機関構成員ではないから、役員の就任についての法的規制をうけることはないのであり、また、無量寺の住職継承者の任命について、右主張のような書面及び公告を要する旨の同寺の規則もしくは規程の存在については、なんらの立証がなく、右任命を要式行為となすべき旨の法令も存しない。してみれば、右主張をもつてしては、前記認定を左右するに足りないというべきである。

(2) 被控訴人両名は、控訴人が無量寺の住職継承者とする意思がなく、俊衡は、被控訴人文雄を住職継承者にする意思があつたことが明らかであつた旨を控訴人及び被控訴人文雄の学歴、生活歴、及び言動ならびに俊衡の言動等を挙げて詳細に主張し、<証拠>中には、右主張に沿う部分があるけれども、右証拠をもつてしては、俊衡が控訴人を無量寺の住職継承者に任命した前記認定事実を覆すに足りず、他に右主張事実を肯認するに足りる証拠はない。

(四) 無量寺の寺格からして控訴人は住職に就任できないとの主張について(原判決事実欄第四の一の2)

<証拠>によれば、単立前の無量寺は真言宗豊山派に属する寺院であつたが、その寺院等級が高いため、同派の住職任免規則により、同寺の住職は、権少僧都以上の僧階を有する教師でなければ就任できないことと定められていたこと、昭和三六年一一月当時控訴人は権少僧都より下位の権律師の僧階を有するに過ぎなかつたことが認められる。したがつて、無量寺が昭和三六年七月右豊山派との被包括関係を廃止する前においては、控訴人は同寺の住職になる資格を有しなかつたということができる。しかしながら、控訴人が住職継承者に任命されたのは、前記のとおり無量寺の単立後であるから、前記豊山派の住職任免規則の法的規制から離脱した後であることが明らかである。なお、<証拠>によれば、寺院が単立したからといつて、僧階等については従来の属していた宗教社会の仕来りが守られており、勝手に高位の僧階を自称しても一般的に承認されないことが認められるが、権律師の資格を有する僧侶が単立後の無量寺の住職継承者に任命されてはならないというほどの宗教社会における慣習があることについては、これを証すべき証拠がない。

右によれば、控訴人が無量寺の住職継承者に任命されることについての障害は見出せないから、控訴人が無量寺の住職継承者という適格を有しないとの被控訴人両名の主張は採用することはできない。

三次に、俊衡が自らの意思に基づいて無量寺の代表役員(住職)を退任し、同人が後継代表役員(住職)に被控訴人文雄を、また、被控訴人荒井を責任役員にそれぞれ任命し、かつ所要の手続をしたかどうかについて検討する。

1 登記及び届出書類(以下、本件申請書類という。)の検討

まず、本件申請書類のうち、俊衡名義の記名、押印のあるものについて調べてみる。甲第二号証の二の代表役員(住職)退任届、同号証の三の代表役員(住職)承継者任命書、同第二号証の四の代表役員(住職)資格証明書、同第三号証の二(1)の責任役員変更届、同号証の二(2)の責任役員資格証明書、同第三号証の三(1)の責任役員変更届、同号証の三(2)の責任役員資格証明書には、いずれも無量寺代表役員としての俊衡名義の記名もしくは署名及び印影のあることが認められるほか、甲第三号証の一の代表役員変更届には、文中及び上部欄外に俊衡名義の印影のあることが、また、甲第二号証の五の代表役員(住職)就任受諾書には、俊衡名義の記名欄に同人名義の印影があり、これが後に抹消されていることが、それぞれ認められる。しかして、原審及び当審における被控訴人文雄本人の供述によれば、右各書証の俊衡名義の記名もしくは署名は、いずれも同被控訴人がこれを記入し、あるいはタイプに打たせ、また、右印影は、同被控訴人が押捺したことにより顕出されたものであること、また、本件申請書類は、甲第三号証の二の(1)ないし(3)、同号証の三の(1)ないし(3)、同第二号証の一ないし五、同第三号証の一の順序で作成されたことが認められるので、以下、その順序に従つて、右各書類が作成された経緯について調べてみる。

(一) 甲第三号証の二の(1)ないし(3)(責任役員変更届関係書類)について

(1) 被控訴人文雄は、原審における本人尋問において、大要次のとおり供述する。

「昭和三九年六月中旬俊衡が同被控訴人に対し、『責任役員の任期満了が近付いているので、お前にあとの住職をやつてもらうようになるから、七月一日にきてくれ。』といわれたので同日昼過ぎ頃庫裏へ行つた。俊衡は、責任役員種井の後任に被控訴人荒井を、責任役員斉藤の後任に皆吉直二郎を選任したいと述べた。その頃、皆吉が夫婦で来訪し、俊衡は皆吉に責任役員の就任を依頼し、その承諾を得た。被控訴人文雄は俊衡から、書式集を示され、次いで、右書式に基づいて責任役員変更届関係書類をタイプするように命じられた。同月三日タイプができたので、俊衡に届け、翌日皆吉夫妻にきてもらい、右書類が作成された。」

(2) ところが、前掲甲第三号証の二の(1)ないし(3)の責任役員変更届の記載をみると、いずれも新責任役員の住所氏名欄には、当初斉藤伊知郎の住所氏名がタイプで書かれていたが、それが手書きで抹消され、そのあとに、被控訴人本田文雄のそれが記入された形跡が明らかであること、また、皆吉は種井の後任として記載されていることが認められるのである。この点に関し、被控訴人文雄本人は、原審において、「右書類の新責任役員欄に斉藤伊知郎の住所、氏名が記載されたのは、同被控訴人がタイプを依頼するときに作成した原稿にミスがあつたためである。俊衡が右ミスをみつけ、右斉藤の氏名欄に暫定的に被控訴人文雄の名前を記入するよう指示したので、同被控訴人が右指示に基づきその旨記入した。右斉藤の氏名を被控訴人荒井にしなかつた理由はわからない。」と供述している。

(3) しかしながら、右被控訴人文雄本人の供述によれば、前記(1)のとおり、同被控訴人は俊衡から、斉藤の代りに皆吉、種井の代りに被控訴人荒井をそれぞれ新責任役員として前記関係書類を作成するよう指示をうけていたというのであるから、種井の後任に皆吉が記載された書類が作成されること自体が不可解である。のみならず、右被控訴人文雄本人の供述によれば、俊衡は種井の後任に被控訴人荒井を選任したいと述べていたというのであるから、前記の如く、斉藤の氏名が抹消された後に、被控訴人文雄の氏名が記入され、被控訴人荒井が記載されなかつたということは、いかにも不自然である。この点に関し、被控訴人文雄本人は、前記のとおり、俊衡が暫定的に被控訴人文雄を責任役員になるよう指示したと弁解するが、被控訴人荒井本人が原審において、「昭和三九年六月中旬頃、俊衡自身から無量寺の新責任役員になるように依頼された。」と供述していることと合せ考えると、いかにも説得力がなく、かりに、被控訴人両名の供述が真実だとすれば、俊衡がなぜ自ら依頼した被控訴人荒井を排除して、いとも簡単に被控訴人文雄を新責任役員に選任したのか、その真意を到底理解することができない。

(二) 甲第三号証の三の(1)ないし(3)(被控訴人荒井に関する責任役員変更届関係書類)について

(1) 被控訴人文雄本人は、原審において、「右関係書類は、同被控訴人が昭和三九年七月一一日前記甲第三号証の二の(1)ないし(3)の責任役員変更届関係書類の届出を済ませたのち、俊衡に対し右届出書類の控を渡すと同人は、同被控訴人に対し、責任役員を被控訴人荒井に変更し、被控訴人文雄を住職にするから、右甲第三号証の三の(1)ないし(3)の書類をタイプで作成するよう指示された。右関係書類は同月一三日にタイプが出来上り、俊衡に手渡した。同月一八日俊衡が被控訴人荒井から、右書類に押印してもらい、同月二〇日に被控訴人文雄が右書類の届出をしたものである。」と供述し、前記被控訴人荒井本人も「同年七月中旬頃俊衡が関係書類を持参したので、同被控訴人が押印した。」旨供述する。

(2) しかして、右甲第三号証の三の(1)(宗教法人責任役員変更届)の記載をみると、「被控訴人文雄が昭和三九年七月一五日一身上の都合により退任し、被控訴人が同日新責任役員に就任した。」旨の無量寺代表役員俊衡名義の書面が作成されていることが認められる。

しかしながら、前記被控訴人荒井本人の供述とおり、もし俊衡が昭和三九年六月中旬に被控訴人荒井に対し新責任役員就任の依頼をしていたとすれば、被控訴人文雄を新責任役員に選任し、しかる後に同被控訴人の後任として被控訴人荒井を選任するということは通常考えられないところである。のみならず、俊衡が被控訴人荒井に対し、その間の事情を何ら説明することなく、被控訴人荒井に対し、被控訴人文雄の後任であることが明記された(もつとも、この点について、被控訴人荒井は、気がつかなかつたと供述している。)前記甲第三号証の三の(1)の書面に押印を求めるということは非礼なこととして、常識を有する人のなしえないところであると考えられる。かように考えてくると、右書類の作成に関する被控訴人両名各本人の供述には、にわかに措信できないところがあり、俊衡が果して被控訴人荒井を無量寺の新責任役員に任命したかどうかについても多大の疑義を抱かざるを得ないのである。

(三) 甲第二号証の一ないし五(代表役員変更登記申請書類)

(1) まず、右書類の形式と内容を調べてみる。甲第二号証の一は千葉地方法務局昭和三九年七月三一日受付の無量寺の宗教法人変更登記申請書であつて、申請人は代表役員被控訴人文雄名義になつており、俊衡が昭和三九年七月二〇日退任し、代表役員が変更した旨が一部改正されて記載されていること、右申請書の別紙書類及び添付書類として甲第二号証の二ないし五の書類のあること、右書類はタイプで書かれているが、一部手書きの部分もあることが認められる。甲第二号証の二は、宗教法人代表役員(住職)退任届であつて、前記皆吉、被控訴人荒井が責任役員として連名で届出た形式になつているが、文書の内容は、「俊衡は病気によつて無量寺の総則第八条、規程第五条により昭和三九年七月二〇日退任する。」というものであり、右記載部分については、代表役員(住職)本多俊衡名義の署名、押印があることが認められる。甲第二号証の三は、俊衡作成名義の宗教法人代表役員(住職)承継者任命書であつて、同人が昭和三九年七月二〇日付で、無量寺の代表役員(住職)承継者に被控訴人文雄を任命する旨の記載があり、これに立会人として、前記皆吉、被控訴人荒井の記名、押印のあることが認められる。甲第二号証の四は俊衡作成名義の宗教法人代表役員(住職)資格証明書であつて、昭和三九年七月二〇日付で、俊衡が無量寺規程第七条により被控訴人文雄を同寺の代表役員(住職)承継者に任命したことを証明する旨の記載のあることが認められる。また、甲第二号証の五は被控訴人文雄作成名義の宗教法人代表役員(住職)就任受諾書(同年七月二〇日付)であることが認められる。

(2) ところで、被控訴人文雄本人は、原審において、「右甲第二号証の一ないし五の書類は前記甲第三号証の三の(1)ないし(3)と同日の昭和三九年七月一一日にタイプを頼み、同月一三日に右書類が出来上つたので、同日俊衡に手渡した。そして、俊衡は同月一八日被控訴人荒井から前記甲第三号証の三の(1)ないし(3)についてのみ押印をもらい、甲第二号証の二、三にある同被控訴人の押印は、同月三〇日に被控訴人文雄が改めて貰つた。」と供述し、前記被控訴人荒井本人も、右書類の押印については、被控訴人文雄本人の供述と符合する供述をしている。

しかしながら、もし被控訴人文雄本人の供述するように、代表役員変更及び責任役員変更に関する二つの書類が同じ七月一三日に俊衡の手許に届いていたとすれば、俊衡は当時すでに被控訴人文雄を住職兼代表役員にする決意をしていたというのであるから、俊衡が被控訴人荒井を七月一八日訪れた際に、右二つの関係書類につき、被控訴人荒井の押印をもらつてくるのが当然と考えられる。のみならず、右被控訴人両名の供述によれば、俊衡の代表役員(住職)選任届及び被控訴人文雄の代表役員(住職)承継者任命という無量寺にとつては最も重大な意味を有する書類の作成につき、俊衡が被控訴人文雄を通じて被控訴人荒井から押印をもらつたというのであるから、もしそれが事実とすれば、俊衡が被控訴人荒井に責任役員就任の依頼をした場合(この場合は自身で赴いている。)に比べて、いかにも重大事を軽々に取扱つたという感を免れないのである。

右のように考えてくると、右二つの書類の作成経緯に関する右被控訴人両名の供述は、にわかに信用することができない。

(四) 甲第三号の一(宗教法人代表役員変更届)について

(1) 甲第三号証の一は、無量寺の代表役員被控訴人本多文雄名義をもつて、昭和三九年八月四日付で千葉県知事宛になされた代表役員変更届であるが、右文書をみると、「本多俊衡は病気によつて職務権限を総理できない為、昭和三九年七月一〇日退任した。」旨の記載のあることが認められる。

(2) 被控訴人文雄本人は、原審において、「この書類は、昭和三九年八月四日の朝、俊衡がもつてきたので、そのまま届出た。同人の実際の退任の日が同年七月二〇日であるのにどうして同書面に七月一〇日退任したとの記載がなされたわからない。同被控訴人自身は右のような記載をしていない。」と供述している。しかし、右書面は、被控訴人文雄がすでに代表役員就任の登記(それが同年七月三一日であることは前記のとおりである。)を済ませた後に、同被控訴人が無量寺の代表役員として届出手続を行つたものであるから、同被控訴人本人の供述には納得し難い点がある。のみならず、右「七月一〇日」という退任の日付のみ被控訴人文雄が記入しなかつたという供述も、右書類を除くその余の書類はすべて同被控訴人がその内容を記載していること前記のとおりであることに徴しても措信できない。

右のように、本件申請書類の記載内容とその作成の経緯に関する被控訴人両名各本人の供述を検討しただけでも、右書類の作成方法に杜撰な点があり、かつ一貫性に欠けるところがみられるばかりでなく、右両名の供述には、不自然または不可解なところも指摘できるのであつて、本件申請書類のうち、俊衡作成名義のものについて、果して同人がその意思に基づいて被控訴人文雄に作成させたかどうかについて疑義を抱かざるを得ない。

2 本件申請書類作成当時の俊衡の心身の状態について

そこで、進んで、右申請書類の作成時である昭和三九年七月初旬頃から同年八月初旬における俊衡の心身の状態について調べてみる。

(一) <証拠>(昭和三九年七月二七日付医師中村精一作成の診断書)によれば、俊衡は、右診断書作成当時「高血圧性心疾患、失語症」で同医院において治療をうけていたことが認められ、<証拠>(同年一一月一四日千葉大学医学部付属病院医師稲田武夫作成の診断書)によれば、俊衡は同年七月四日同病院に赴き、「高血圧性心疾患兼脳軟化症(失語症)」との診断をうけたことが認められ、<証拠>(昭和三九年一一月一六日付医療法人同和会千葉病院医師石田武作成の診断書)によれば、「俊衡は昭和三九年七月当時脳軟化症の経過中であつて運動性失語症を主症状とし、精神障害はなかつたものである。」と診断されていることが認められる。

ところで、<証拠>(皆吉直二郎の証人調書)によれば、「昭和三九年七月四日当時俊衡はろれつがまわらず、話す言葉がはつきりせず、被控訴人文雄が傍にいて、俊衡の言葉を説明し、俊衡がこれを聞いて肯づいていた。」というのであり、右皆吉本人の原審における供述によれば、「俊衡は口は満足にきけず『うーん』といつて手まねをしていた。」というのである。被控訴人文雄本人は原審において、「俊衡は口をもぐもぐさせ、手まねをやつていた。」と供述し、当審においても、俊衡の発語はたどたどしいものであつたと供述している。右によれば、本件申請書類作成当時における俊衡の発語能力は相当劣つていたものであることが認められる。

(二) ところで、被控訴人文雄は、原審において、前記甲第二号証の一ないし五の代表役員変更申請書提出日である昭和三九年七月三一日当日の俊衡の心身の状況について、「当日俊衡は朝六時前に私のところにきて、戸をとんとん叩いた。出てみたら俊衡がはだしで表に立つている。驚いて俊衡を家へ上げようとしたが、なかなか上らない。俊衡は急いできたために口がきけない。口がきけないので、マジツクペンと子供の画用紙の切れ端を渡したところ、俊衡が書いてくれた。乙第一一号証の一ないし三がそれである。俊衡の書いたものをみて、同人は急いでいるんだとわかり、それで今日はどうしても手続をしようという積りで千葉の登記所に行つたわけです。」と供述する。

そして、右供述によつて俊衡が書いたと認められる乙第一一号証の一ないし三をみると、「書き入れてくれ書き入れてくれれば(あとは判読できない。)」(同号の一)、「無量寺公告を出してくれ、無量寺の告コクを出してくれ(あとは判読できない)無量寺殿」(同号証の二)、「無量寺告こくを出してくれればよいから無量寺殿」(同号証の三)との記載のあることが認められ、また、右文書の運筆には、いわゆる失調的現象が看取される。右によれば、俊衡の昭和三九年七月末頃における心身の状況は、その行動面においてやや常軌を逸したところがみられ、また、発語もままならず、そのうえ、文章構成能力、書字能力も相当低下していることが推認されるのである。

(三) ところで、被控訴人文雄本人は、原審において「乙第一一号証の一ないし三の意味は、俊衡が私に早く登記をしてくれと申請しているというふうに解釈しました。」と供述している。たしかに、右文書には意味不明で判読し難いところがあるけれども、「無量寺の公告を出してくれ。」という文言が三度も書かれているのであつて、それが「登記」を意味するとは考え難い。なるほど、「公告」と「登記」は公示という点で共通しているとはいうものの、その方法は全く異るうえ、法第二三条には、宗教法人の一定の財産処分等の場合には「公告」をすべき旨規定しているのであつて、俊衡が登記と公告の用語を混同して認識していたとはたやすく考えられず、また、昭和三九年七月頃無量寺が所有地の一部を売却したことは被控訴人両名の自陳するところであり、かつ、<証拠>によれば、その頃無量寺の境内地に庫裏等を再建する計画が進んでいたことが認められるから、俊衡が境内建物の新築もしくは改築のための公告(同条三号参照)の必要性を感じていたことが考えられないではない。そうだとすれば、被控訴人文雄が乙第一一号証の二、三に記載された「公告」を「登記」と理解したことは、本件申請書類の作成当時、被控訴人文雄が俊衡の意思を正確に了知したものといえるかどうかの点についても疑義を抱かせるのである。

(四) 以上によれば、本件申請書類作成時における俊衡の意思の伝達方法は口頭、文書いずれの方法においても、きわめて不完全であり、住職退任、新住職任命、責任役員選任というような重大な法律行為をするに足りる事理弁識能力を有していたかどうか、また、仮に右の能力を有していたとしても、被控訴人文雄が俊衡の不完全な言語、文字及び挙動による指示を正確に了知して、本件申請書類の作成に当つたかどうかについて、疑義をもたざるをえない。

3 次に、俊衡に住職退任、新住職任命の意思があつたか、どうかを本件申請書類作成に関与したとされる関係者の供述によつて調べてみる。

(一) 被控訴人文雄本人は、原審及び当審において、「同被控訴人は昭和二三年秋、俊衡から控訴人は教員の道を進んで無量寺の後を継がないから、同被控訴人が無量寺後継者になつてほしいと懇望され、その結果、大正大学文学部仏教学科に進み、その後俊衡のもとで加行を積み、真言宗豊山派から権中僧都の僧階を付与された。また、同被控訴人の結婚の際にも、俊衡において、同被控訴人が住職後継者であることを先方に伝え、また披露宴でもその旨を公表した。そして、昭和三五年九月俊衡と一部檀信徒との間に発生したいわゆるムシロ旗事件の際も、同被控訴人は俊衡から『お前は将来この寺の住職になるのだから、側にいてくれ。』といわれて俊衡を助けた。そして昭和三六年の無量寺単立の際も俊衡から相談をうけ、その後無量寺本堂再建についても、同被控訴人が率先協力した」旨供述し、<証拠判断略>。

しかしながら、被控訴人文雄本人の供述するように、仮に俊衡が同被控訴人を無量寺の住職後継者と考えていたとしても、それが俊衡の死後の住職継承者であるならば、格別、無量寺規則第七条一項には、「代表役員の任期は住職の任期とし、住職の任期は終身とする。」旨定められていること、しかも、俊衡は大正八年以来、苦労しながら営々として無量寺の住職として同寺の発展に努め、怠りなく寺務を処理してきたものであることに徴すれば、俊衡がその任期中に退任するということは、異例の事に属するというべきである。しかも、俊衡が住職を退任すれば、無量寺から得られる収入を失うことになるのであるから俊衡自身はもとより同人と生計を共にしていた妻喜久枝、同女との間に生れた和子の生活にも多大の影響を及ぼすこと明らかである。したがつて、俊衡が住職を退任し、新住職を任命するには、俊衡によほどの事情と真摯かつ確定的な決意の存在を要するといえよう。

この点に関し、被控訴人文雄本人は、原審及び当審において、「俊衡が同被控訴人に住職退任の意向を洩らしたのは昭和三九年六月中旬であり、俊衡は『責任役員の任期満了が近付いているから、お前にあとの住職をやつてもらうようになる。』といわれた。そして、責任役員変更届を出した七月一一日に前記皆吉も交えて俊衡から『自分は住職をやめ、後継住職に被控訴人文雄を決めるから、書類をタイプで作つてこい。』といわれた。さらに、同月二〇日にも俊衡は前記皆吉を前にして『自分は住職をやめるから、同被控訴人が代表役員になれ。』といわれ、傍にいた妻喜久枝に対し、俊衡の印鑑を持参するよう命じた。しかし、喜久枝が種井や控訴人に相談しなくてよいのかとぶつぶついうと、俊衡は怒つて机を叩き、喜久枝はあわてて印鑑をもつてきた。同被控訴人は印鑑を渡され、俊衡の指示に従つて住職退任届その他の関係書類に押印した。」と供述している。

しかしながら、前記認定のとおり、俊衡は控訴人を住職後継者に任命するに当つても、責任役員及び檀徒総代の意見を徴し、その了解のもとにこれを行つている程であるから、ましてや、住職退任、新住職任命という重大事を被控訴人文雄及び前記皆吉のみを交えて決するということはたやすく考え難いのである。しかも、被控訴人文雄が、俊衡から指示をうけて作成したという本件申請書類には前記のとおり幾多の疑義があり、また、右書類作成当時の俊衡の事理弁識能力にもかなりの不安があること前記のとおりであつてみれば、被控訴人文雄の前記供述をたやすく措信することはできない。また、俊衡が当時前記のとおりの心身の状況にあつたことに鑑みれば、同被控訴人が無量寺の常備書類綴<証拠>及び施餓鬼供養帳<証拠>を所持していること(この事実は弁論の全趣旨によつて認められる。)をもつてしては、いまだ、被控訴人の代表役員(住職)継承の事実を証するに足りないというべきである、のみならず、もし、俊衡が住職を退任し、被控訴人文雄を無量寺の新住職にする意思を有していたならば、前記のとおり昭和三九年八月四日付で所轄官庁である千葉県知事宛に代表役員(住職)変更届をしているのであるから、それ以後、俊衡が住職としての職務を行うはずがなく、むしろ俊衡は被控訴人文雄が新住職としての寺務を行い易くするのが通常と考えられる。しかるに、<証拠>によれば、昭和三九年八月一六日に無量寺で檀信徒多数が参列して盛大に行われた施餓鬼供養の際には俊衡が導師となつて法事を主宰し、控訴人、被控訴人文雄が副導師もしくは助法となつたこと、右法事の際、俊衡は、被控訴人文雄の住職就任につき何らの挨拶もしなかつたことが認められる。この点につき、<証拠>(昭和四四年二月二〇日に行われた被控訴人文雄の本人尋問調書)において、同被控訴人は、何故導師の地位につかなかつたのかとの質問に対して全く返答ができなかつたことが認められるのであるが、同被控訴人は、原審及び当審においては、「俊衡から、これが最後の導師となるだろうからやらせてくれとの申出があつたから、了解したものである。また、住職就任発表も俊衡が任せておくようにいわれたのでこれに従つた。」と供述しているのである。しかしながら、俊衡が退任後一か月にも満たない時期に一年で最も重要な行事であるお盆の法要を自ら導師として行う意向があるというのであれば、その前に退任すること自体が不可解である。のみならず、俊衡がもし真実住職を退任し、被控訴人文雄を新住職に任命する意思を有するのであれば、住職就任披露の普山式は後日に執り行うとしても、法類及び檀信徒等の関係者に対しては一日も速やかに新住職の誕生を伝えるのが通常と考えられるのであつて、俊衡がすでにその登記まですませている被控訴人文雄の住職就任の事実を発表しないという事は全く理解できない。この点に関し、<証拠>(飯生とり作成の書面)には、同人が俊衡から被控訴人文雄が住職になつたことを話された旨の陳述記載があり、また、原審証人杉嵜福太郎は、昭和三九年八月上旬頃、偶然無量寺境内において俊衡と会つた際、同人から「被控訴人文雄が今度住職になるからよろしく」といわれたと証言し、また、原審証人岩名桂次郎は昭和三九年夏頃俊衡が訪ねてきて、被控訴人文雄を住職にした旨述べたと証言する。しかし、右証拠は、俊衡が前記のとおり同年八月の施餓鬼供養の際に、俊衡が被控訴人文雄の住職就任について何らの発表もしなかつたこと及び本件弁論の全趣旨に照らして措信できない。

(二) 被控訴人荒井本人は、原審において、「昭和三七年の盆行事の際、被控訴人荒井は俊衡に対し『一日も早く文雄の方を住職にしたらいい。』と進言したところ、俊衡は、『すぐにでもそうしよう。』と言つた。また、昭和三九年六月中旬頃俊衡が被控訴人荒井を訪ねて、無量寺の責任役員に就任するように依頼されたときも、俊衡の健康状態に危惧を感じたので、同人に対し被控訴人文雄の住職就任を要望した。そして、俊衡自身が同年七月中頃被控訴人荒井を自ら訪問し、責任役員就任承諾書に押印を求め、その後同月未頃被控訴人文雄が代表役員変更関係書類に押印を求めにきたので、いずれも押印した。」旨供述する。しかしながら、昭和三七年盆頃には、俊衡がまだ健康であつたのであるから、その頃に同被控訴人が俊衡に対し住職退任を進めるというのも非常識なことであるし、俊衡がこれに同意したというのも不可解である。また、同被控訴人の供述によると、俊衡は同被控訴人とは長い間疎遠であつたというのであり、しかも、前記のとおり、甲第三号証の二の(1)ないし(3)の責任役員変更届には新責任役員として被控訴人文雄が記載されていること前記のとおりであることからすれば、俊衡が自ら被控訴人荒井に責任役員就任を依頼したとの同被控訴人の供述もにわかに措信することができない。

(三) 次に、前記皆吉本人も原審におい、「俊衡から『文雄に後を継がせるようにするから、皆吉さんも頼む。』と何回もいわれ、自分も被控訴人文雄に後をやらせるよう進言した。住職変更届出関係書類には自分で印を押し、俊衡も喜久枝もその場にいた。』旨供述する。しかし、同人は、「俊衡が昭和三九年七月初頃すでに、失語症になつていて、被控訴人文雄が傍にいて俊衡の言葉を説明するような状況にあつた。」と供述していること前記2(一)のとおりであるから、右皆吉が俊衡の退任、被控訴人文雄の住職就任の意思を明確に把握できる立場にあつたとは考えられず、また、すでに検討してきたとおり、被控訴人両名の供述には種々疑義があるのに、右皆吉の供述には右両名の供述に符節を合わせようとする傾向が窺われるのであつてにわかに措信できない。

(四) これに対し、<証拠>(昭和四一年一〇月二八日付俊衡の本人調書)には、「俊衡自身は代表役員をやめたことがなく、被控訴人文雄を代表役員に任命したこともない。また、その手続を誰にも頼んだことがない。無量寺の代表役員の印鑑は妻喜久枝に預けていた。」旨の陳述記載がある。右調書中には、質問に対する答えがなく、あるいは記憶がないという答えのある箇所があるが、総じて相当明確に自己の考えなり、意見を陳述していることが認められるのであつて、信憑性を有するものといえる。

ところで、被控訴人両名は、「昭和三九年八月六日付で被控訴人文雄が無量寺の代表役員の資格において無量寺本堂の登記申請書類が作成されており、その頃、同書類が俊衡に手渡されているのに、同人は何ら異議を述べていない。これは、俊衡が代表役員変更について十分理解して押印した証左である。」と主張し、<証拠>によれば、被控訴人両名主張の書類が作成がされ、その主張の頃、右書類が宮崎清輝から俊衡に手渡されたことが認められる。しかしながら、当時における俊衡の事理弁識能力は、前記のとおり通常より劣つていたと考えられるのみならず、原審における被控訴人文雄本人の供述によれば、同被控訴人は無量寺の所有財産の売却等につき、俊衡から委任をうけ、俊衡は同被控訴人にこれらの処理を委せていたというのであるから、俊衡は被控訴人文雄を信頼していたと窺われるのであつて、そうであれば、俊衡が改めて登記書類の内容を細かく検討しないということも十分ありうるのであつて、右の事実をもつてしては、いまだ、俊衡が無量寺の代表役員の変更を了承していた証左とみることはできない。

また、<証拠>によれば、昭和三九年七月一四日小林トモノが銀行員を伴つて無量寺から売却をうけた土地代金一四五万円を同寺に持参したところ、俊衡が健康の具合が悪く、そのため、俊衡の指示で、同被控訴人が右金員を受領したことが認められる。そして、当審証人本多喜久枝の証言及び当審における被控訴人文雄本人の供述によれば、同被控訴人は受領した金員を同人名義で預金しようとしたが、喜久枝から俊衡の名義で預金するのが当然であるとの反対をうけ、結局、俊衡の指示により同被控訴人と俊衡との共同名義で預金をしたことが認められる。しかし、右売却代金の受領及び預金名義人に関する事柄は、無量寺の住職変更とは、異質の問題というべきであるから、同被控訴人が俊衡から無量寺の所有財産の売却、その代金の受領等につき代理権を付与されていても、これをもつて、俊衡が住職の変更を決意していた証左とみることはできない。

(五) また、<証拠>によれば、俊衡と生計を共にしていた妻喜久枝は、前記俊衡の住職退任及び被控訴人文雄の住職就任の事実については、俊衡からはもとより同被控訴人からも全く告げられていなかつたこと、また、喜久枝は、前記申請書類作成当時、これに立会つたことのないことが認められ、<る。>また、<証拠>を綜合すれば、喜久枝及び和子は昭和三九年七、八月頃、被控訴人文雄から無量寺本堂の登記に必要だといわれ、同被控訴人がこれを本堂の登記に使用すると信じて、俊衡から保管を依頼されていた同人の実印を二回程同被控訴人に貸与したことが認められ、<る。>

右関係者の証言、供述を検討してみると、俊衡には、無量寺の代表役員(住職)退任及び新代表役員(住職)任命の意思があつたと認めることはできない。

4 以上、本件申請書類、俊衡の心身の状態及び関係者の証言等を綜合検討したところによれば、本件申請書類中、前記1掲記の書証<証拠>の俊衡名義の記名、押印が同人の意思に基づいて記載及び顕出されたものとは認め難く、したがつて、右書証の成立の真正は認められず、また、俊衡が無量寺の代表役員(住職)を退任し、被控訴人文雄を後継代表役員(住職)に任命した事実はいずれもこれを認めることができない。

5 被控訴人荒井の新責任役員の任命について

さきに、前記1(二)で検討したように、被控訴人荒井の責任役員任命届<証拠>が果して俊衡の意思に基づいたものといえるかどうかについて多大の疑義のあることを指摘したのであるが、同被控訴人本人の原審における供述をみると、俊衡がはやく退任し、被控訴人文雄が住職になることを願つていたことが看取されるのであり、しかも、その供述中には被控訴人文雄本人の供述と符節を合わせたと窺われる点も少なくない。したがつて、俊衡が、被控訴人荒井に対し、責任役員就任の依頼をしたとの同被控訴人本人の供述をたやすく措信することはできない。

四しからば、被控訴人無量寺の住職は昭和四二年三月七日に俊衡が死亡するまでは同人が就任していたものであり、その後は、同人によつて住職継承者に任命された控訴人が同寺の住職となつたものというべきである。そして、無量寺の住職は規則第五条、第六条により、代表役員及び責任役員となることが定められていること前記のとおりであるから、控訴人が右の役員の地位にあることが明らかである。また、被控訴人文雄は登記、届出の事実があるけれども俊衡から無量寺の代表役員(住職)に任命された事実はないから、現に同寺の代表役員及び責任役員でなく、被控訴人荒井も同様にして、現に同寺の責任役員ではない。したがつて、被控訴人両名が俊衡から右各役員を任命されたことを前提とする当事者双方の主張についての判断は要しない。

よつて、控訴人が右の事実に基づき控訴人及び被控訴人両名の被控訴人無量寺における各役員の地位の存否確認を求める本訴請求は、理由があるからこれを棄却した原判決は失当であるのでこれを取消し、同請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法第九六条、第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(渡辺忠之 糟谷忠男 相良朋紀)

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